こものヒーロー名鑑Vol.3 山口典宏さん|家業を継がせたくない親×継ぎたくない自分の組み合わせなのにしっかり継いで「次世代に誇れる仕事にしたい」と思うまでに至った話

魅力たくさんな菰野町は、たくさんのヒーローたちによってつくられています。
本シリーズでは「こものヒーロー名鑑」と題して町のヒーローを紹介していきます。

「敷かれたレールに乗る」ことへのどこからともない拒絶

昭和48年創業に植木鉢をつくる工場として立ち上がった山口陶器さん。

その家業を継いで現在は「かもしか道具店」を軸に気鋭の地場産業事業者として全国に知られることとなっている。

そんな山口さんに、家業を持つ人ならではの葛藤と選択の道のりをお聞きしました。

ー本日はよろしくお願いいたします。

よろしくお願いします。

ー家業として萬古焼の製陶業をやられていたということですが、継業するという話はスムーズにいったんですか?

元々は全く継ぐ気はなかったんだよね。

ーなんで継ぐ気がなかったんですか?

なんで継ぐ気がなかったか!?笑 うーん、やっぱり「敷かれたレール」が嫌だった。ラグビー推薦で行った工業高校でも「セラミック科」だけは絶対に行かないと決めてた。笑

ーそれくらい決められたルートは嫌だったんですね。実際お父様的にはどうだったんですかね?

サラリーマン辞めて僕が継ぐって言い出した時は「そんなバカなことあるか」って反対されたね。

ー家業あるあるのような気もしますが、実際に聞くと継がせる気がない親と継ぐ気のない子、というマッチングなのに継業することになったのってすごいですね 笑

もともと家業の仕事内容自体がどう、とか父親が嫌い、とかそういうことはなかったんやけどね。誰に言われたわけでもないのに、なんとなく「決められた道」のように感じてて嫌だったんだと思う。

転機は自分の中に

ーそんなに頑なだったのに、どうして継ぐ気になったんですか?

それなりの大きい企業に入って、サラリーマン生活が始まった。入ったすぐからその組織の中での自分の将来像についてがイメージできず、なんとも表現できない違和感がずっとあった。何かはわからないけど「なにかしたい」というのがずっとあった。とはいえそれが何なのか、自分がどういう風に生きていきたいのか、答えが出ずにモヤモヤとしながらも10年勤めた。

ー三重県、特に北勢エリアではとても身近な話に感じます。「何の為に働くのか?」というテーマは特に多くの人について回る問いだと思いますね。

そんな自分を知ってか知らずか、ある時上司からこれからのキャリアについての打診があって。頑張って組織内で上にいくルート、現状維持のまま淡々と働くルート、あとは「家業を継ぐ」ルート。それによって、お前をどこに推薦するかが変わる、と。そこでハッとした。「そういえば、うちには家業があるんやな」って。

ー自分の中の「当たり前」って、自分では意外と気づけなかったりしますもんね。

それから改めて、その家業ということについて考えることが多くなった。「この仕事に食わせてもらって、育ててもらった」と考えるといろいろな思いが巡るようになって、父に「継がせてくれ」と頼んだ。

ーそしたら「(それだけ勤めた仕事を捨てて継ぐなんて)そんなバカなことあるか」と言われたわけですね。

そう。今思うと、衰退産業を業界経験のない人間に継がせることのリスクを考えた親なりの優しさなのかなとわかるけど、僕は逆に、僕を育ててくれた仕事をもし継ぎたいと言ってくれる人が現れた時にNoと言いたくない。次世代に誇れる仕事にしてみたいって思った。

ー素敵なエピソードですよね。

これは今まで取材してもらったメディアでもよく取り上げてもらってるね。笑

そんな二代目の考える「これから」

ー今は継がれてどれくらいになるんですか?

17年になるのかな。

ー17年やられてみてどうですか、っていうとすごいバカみたいな質問なんですけど 笑 「次世代に良い形でバトンを渡す」ことが一つの大きなゴールという中で、これからどんなことに取り組んでいきたいとかってあるんですか?

事業って50年のスパンだと思っていて。うちが昭和48年からなのであと3年で50年になるんかな。僕が継いでからの特にこの10年でやってきたことっていうのは父がやってきたことをガラッと変えてきたものとはいえ、あくまで「父の事業の延長上」の、大きな流れの中でのことだと思ってる。だから僕は「これからの50年」について考えていかないと、次世代に残せない。あと15年で、僕が死んでも続いていくような「形」だけ残して引退したいなって。

ーなるほど。それならたしかに「次世代に継がせてもいい仕事」ということになりますね。具体的にこれからの50年のプランはあるんですか?

「ヴィレッジ」にしていきたい。ただ箱がある、というのではなくって。ここに工房があって、ショップがあって、というのが現在。飲食、宿泊、人の集まる公園やワークスペース…とか、農業や地場産業を体験してもらうみたいなことができないかなあって考えてる。

ー里山モデルとでも言いますか、地域での文脈の起点づくりですね。なぜそう考えたんでしょうか?

50年前くらいの地場産業が盛んな時は、地場産業を中心にたくさん雇用もうまれたし自治体が栄えるのに一役買った。地場産業で豊かになったから自治体もバックアップしたり保護したりしてきた。でもそれが長く続いてきたら、地場産業が国や自治体のサポートを受けるのが「当たり前」になっているように感じることがある。

ー時代とともに本来の目的とは少しずれてきて歪な構造になっている、というのは行政がらみでよく見られることのように思います。

50年前の地場産業はたしかに地域を担っていた。果たして現在はどうなんだ?「新しい地場産業の形」っていうのはどんなことなんだ?ここ(菰野町)に地場産業がある意味ってなんなんだ?を考えて構築していかなくてはいけない。

ー地域と事業の関係性。言葉にすると当たり前のように思えますけど、対面のビジネス以外でそこをうまく体現できている企業体って確かにそんなに多くはないかもしれませんね。

ありがたいことに、こんな辺鄙なところにあるうち(かもしか道具店)を目がけて来てくれるお客さんは増えてきている。うちに訪れる人は、うちだけに来てとんぼ返りしたいってことはほとんどないんじゃないかな。買い物したり、食事したり、温泉入ったり、観光したり、それぞれの「せっかく来たから」があるはず。まず我々が「わざわざ行きたい」と思ってもらえる目的地になって、その後のプランをこちらから能動的に提案していく・表現していく。そうした活動の結果、定期的に菰野町を訪れて滞在する関係人口を増やしていくことこそが、うちら(地場産業)が菰野町にある新しい意味になっていくんじゃないかな。それを僕たちの世代で道筋を描いて形にしはじめていくことができたら、数年後か数十年後に訪れるこの50年の終わりには「新しい地場産業の形」ができてるんじゃないかな。

うちだけが生き残っても仕方なくって、大きく捉えて産地、ひいては菰野町が元気になる為に地域を巻き込んで盛り上げていくことが僕の仕事だと思ってる。

山口さんの「クローン化」は実現可能?

ーお会いする前から思ってて、実際にお話を聞けば聞くほど「山口さん二世、三世をこの土地に生めないのか?」という風に思うんですよね。先ほどの話にもありましたけど、四日市・菰野というエリアは古くはその交通の便の良さから東海道の宿場町として栄え、現在では日本有数の工業地帯として多くの企業を擁する反面「経由地」だったり「労働者の街」という雰囲気が色濃くあり、独自の文化が醸成されたり、チャレンジ精神のある方が生まれることが少ないように思うんです。山口さんも、学生時代はスポーツに打ち込み、工業高校からメーカーに就職といういわゆるこの土地の「王道ルート」を通ってきたように思うんですが、もともとクリエイティブなことが好きだったり、センスが良かったりしたんでしょうか?

まさか。笑 学生時代は本当にラグビーしかしてなくて、勉強もからっきしだった。なんでこうなったか、と言われるとむずかしいなあ。僕の場合は、やっぱりいろんな人との出会いがここまで引き上げてくれたと思う。いろんな人と会って、話して、遊んで。その中で気づいたことや感じたことをインプットしたり、アウトプットしたりの繰り返しをしてきただけかな。

ーなるほど。となると「二匹目のどじょう」のフレームを用意するのはなかなか難しそうですね。笑

いやいや。でも、ありがたいことに今ではいろんなところに呼んでもらって講演したりするんだけど、たしかに地元の時が一番手応えが薄い感じかもしれない。

ー見ているところが違う、というのはありそうですね。脱サラ一発逆転のストーリーではなくコツコツやるしかない、という当たり前の事実を突き付けられると意外とピンとこないのかもしれません。

僕からすれば、ターニングポイントは「覚悟を決めた」ということだけで、そこまでは他の人となんら変わらない道のりだったと思う。まあ親に反発してサラリーマンやりながらも、家業がある家で育ったことで「いずれは自分で何かをやる」という感覚が頭の片隅であったのはあるかもしれないけど。

ーすごい人の話を聞くとだいたいそういうシンプルなところに行き着きがちですよね。「やるかやらないかだけ」的な。

ホントにそうだと思う。僕には何も特別な才能とかはないし、ちゃんと勉強したのも「やる」と決めてからだし。やる前から諦めていたり、やらないままだったら、今の僕はいないと思う。

ーなかなかこの土地で生まれ育つと王道ルートを外れるのは難しいし勇気のいることですよね、身近にあまりそんな人もいないし。

「出会い」が生んだかもしか道具店の軌跡

ー今の自分があるのは出会いのおかげ、ということでしたがその中でも印象的な出会いはありますか?

中川政七商店の当時の代表の中川淳さん、僕は淳ちゃんって呼ぶんだけど笑 淳ちゃんが仕事でこっちに来るときにご一緒する機会があって「こういう自社ブランドの立ち上げをやりたいと思ってる」というプレゼンをさせてもらったら、評価してくれて「お披露目はうち(中川政七商店)の展示会で是非出しましょう!」と言ってくれた。

ーすごいエピソードですね!あの中川さんを捕まえて淳ちゃんとは!笑

そんな風に呼んでる奴あまりいないよね 笑 その時の話には続きがあって、淳ちゃんはその場で「中小企業の経営者のほとんどは『経営』をしてない。予算もなければ目標もない。目的地がないから今やるべきこともわからない。中小企業がきちんと『経営』したら、当然やれる」というようなことを話してて。で、それを言い終えるやいなや「ねえ、山口さん?」と、もう【僕は当然『経営』をやってる】という体でパスをくれたもんだから、それはそれはもう心が痛くて。笑

ーそういう風にしっかり取り組んでる人、と認識してたんでしょうね。笑

そっからは読んだこともない本読んだりして経営の勉強したり、予算や計画を作ってみたりして。

ーそこからだったんですね。

家業継ぐってなってから現場で下積みして、代表になって、ブランド立ち上げるって決めて。周囲から見たら作家でもない自分がブランドを立ち上げるなんていうのはありえないことだった。

ー一般的なルートとはやはり違いますよね。

ブランド立ち上げた年はもう、ホントに大赤字やった。自分の貯金も全部無くなったし、銀行も引き気味になるし、ものすごくつらかったね。でももう既にその年も翌年も予算を決めてたから「それでもいくしかない」という思いで腹括って進んで、今があるって感じやね。

ー周りから見てると輝かしい部分しか見えないけど、やはり泥水すする時期っていうのが山口さんにもあったんですね。

みんないいとこしか見ないからね。笑 僕は何もできないから、おかげさまで優秀なスタッフや出会った人に助けてもらってるよ。

こんな人とツナガりたい!

そんな山口さんに、繋がりたい人物像について聞いてみました。

・アクションする次世代

そして、おまけで「地味に気になっている菰野町の謎」というのをお聞きしてみました!笑

・こもの薬局の「やせれば全てうまくいく」かな。あれは気になる。どんな提案されるのか。

た、たしかにこの強いメッセージ性は気になってました…!

今はやられていないようなので、どなたか情報ありましたらお寄せください!笑

 

かもしか道具店さんのような「地域の一番星企業」に追いつけ追い越せで、菰野町を盛り上げていきたいですね!

こもガク2020は2020年9月27日にオンラインで開催するイベントです。…

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